山本美香さんシリア惨劇の報道内容と事件の責任

 日本人ジャーナリスト山本美香さんがアレッポで銃撃され死去した事件の責任問題だが、テレビも新聞も事件を美談に仕立てて視聴者の関心が責任問題に向かわないように努力している。
 シリアといえば今年に入って30人近くのジャーナリストが命を落としている国で、安全であるはずがない。妹に「安全だ」とメールがついたという報道も、それが事実なら状況判断を誤った彼女の自己責任が問われて当然だろう。
 公私ともに最高のパートナー だった事実婚の夫とかいう男が同行していたらしいが、そういうふしだらな関係を正当化した報道にも違和感がある。価値観のちがいというのなら、それはそれにしても、そういう価値観の持ち主たちが、性道徳に厳しいイスラム社会にはいって庶民の真情にはいりこんだ報道ができるものか、ふたりの解説報道の内容に疑問符をつけたい。
 連れて行く男も男なら、のこのことついていく女も女だと思う。自分や家族の安全をないがしろにした行動に、まったく非難が出てこない報道に疑問をもつ。

 だれかがうしろで仕組んだ偏向報道だと思う。こんなものにネットがだまされてはいけない。

この記事へのコメント

  • ひとこと

    あなたの書いていることは、問題を履きちがえている。事実婚がどうのこうのとか、そんなプライベートな部分は今回一切関係がない。
    安全な国でないことも分からないで行ってるはずがないだろう。それでも、信念を持って、現地での取材をするジャーナリストがいるから、こんなに遠い国の私たちも世界の現状を知ることができる。いかに戦争がおろかで弱い市民が一番不幸なのだと知ることができる。

    犠牲になったジャーナリストは遊びに行ってるんじゃない。

    自分の発言に恥を知れ。
    2012年08月24日 10:02
  • サイン



     大新聞、大テレビの記者は、危険な地域には行かないわけです。危険と言っても超危険地域の話をしています。逆から定義してもいいです。大マスコミが踏み入らない危険地域があります。

     どうしてもそういう紛争地域については命をかけて取材する独立系ジャーナリストの取材、録画が必要になってきます。

     したがって、大マスコミが、そういう危険な紛争地帯に送り込む独立系ジャーナリストを批判することは考え難いということが罵愚さんの仰りたいことのように思います。

     すると、ひとことさんの言っていることと根っこは同じですね。

     原発の場合も同じです。東電の社員が危険な目に遭うのではなく、最前線で危険な目にあうのは、下請けの弱い立場の人々です。

     今回の件で責任問題というならばそれは大マスコミにあるのであり、引いてはそれで視聴率が取れることで利益を得る大企業にあるのであり、そうした番組にお茶の間で、ごはんをぱくぱくおいしく頂いたり、お菓子を食べたりしながら、のんびりと関心を示す我々にあるわけです。

     実際に命をかけて取材に行った人々には責任はないのです。

     ちなみに、今日の報道では、残された動画に「日本」という言葉(もちろんあちらの言葉で音声が入っています)が残っていて、日本人の報道関係者を狙い撃ちにしたのではないかという疑いが浮上しているそうです。
     
     日本人が拉致誘拐されて金銭目当てで被害を被る事例はこれまでにもありましたが、日本人関係者がそういうテロの標的にされるというのは、初めてか、数少ないと思います。
    2012年08月24日 11:02
  • 罵愚

    ひとこと さん、
     信念があって、それがふしだらなプライベートであったり、無謀な取材だったが、ニュースをうけとったのだから感謝しろというのかなぁ? 深淵が正当化の理由にはならんと思う。
    2012年08月24日 11:41
  • 通行人

    不法入国した犯罪人なのに、彼女を撃った政府軍はけしからん、という方向性の報道もありました。当然の帰結なのに、なぜ無関係の私たちが同情しなければならないのか、さっぱりわかりません。

    私たちの政治経済にもっと直接影響する深刻な問題が山積なのに、民間人が一人死んだという低レベルの話題を、何日も報道し続けるところに、そもそも悪意が隠されていると思います。
    2012年08月24日 21:09
  • なみだながしこ

    あまり詳しくないのですが、尋常でないところで命が簡単に失われることが衝撃でしたので、一言書かせてください。報道社会の商売はわかりませんが、狙い撃ちのような銃撃で、死亡した女性のものとされるカメラ映像は早々に何度も放送されましたが、通信社代表の逃げ延びた男性のカメラ映像は今夜出てきました。たち位置の図式や、銃撃の位置など疑問だらけですね。安全な所まで逃げてから、女性を心配している風でしたが、腑に落ちない映像でした。女性の映像には、怯えや不安が感じられます。事実婚で10数年の戦場報道のパートナーというより、騙されている世間知らずな女の子に見えました。即死に近いと言うことで、せめてもの慰めでした。御冥福をお祈りします。男性の経歴を知りたいものです。身勝手なコメントになったかもしれませんので、お許し下さい。実家にカメラが回っているところに、電話が入ってみたり、可哀相です。
    2012年08月25日 01:10
  • 罵愚

     感情的な非難レスの集中砲火を覚悟していたのですが、意外の共感レスにあっけない感じがします。たしかに背後に報道機関の商業主義や組織防衛や左翼平和主義や戦後民主主義と呼ぶ非民主的な価値観やら人生観の偏向ガラスの光学的作用が散らばっていると、あらためて認識いたしました。
    2012年08月25日 03:27
  • 山路 独

     それでも世界中でたくさんの人たちが犠牲になっている事実は変わりません。
    2012年08月25日 04:25
  • サイン





     http://ameblo.jp/metameta7/entry-10044022976.html(再掲)のコメント欄より私のコメントを引用します。そちらのコメント欄でのハンドルネームはカニです。

    ****で囲まれた部分が今回の引用で、引用先で引用している部分には、○○○でかっこっています。

    **************


     井沢元彦氏はこう言っています。

    ○○○ 引用開始 ○○○

     靖国参拝を中国人が理解できない理由

     実は現在の中国も共産主義の洗礼は受けていますが,儒教国なのです。

     ですから,死んだ悪人は未来永劫悪人だという考え方は今の中国にもあります。

     その典型的な例を,岳飛という有名な愛国軍人を祭った廟に見ることができます。

     岳飛は南宋時代の軍人ですが,その愛国心の強さから,侵略を繰り返す北方民族・金に対して徹底抗戦の姿勢を唱えました。

     しかし,そんな岳飛を邪魔に思っていた時の総理大臣・秦檜(引用者註:しんかい)に陥れられ,彼は獄死してしまいます。

     その岳飛を祭った岳王廟が杭州にあるのですが,そこに行くと,日本人には絶対に想像できない光景を目にすることになります。

     そこには中央に廟があり,岳飛の木像が安置され,神として祭られているのですが,その遠藤の右側に,岳飛を陥れた秦檜夫妻の像があるのです。

     しかも,それはただの像ではなく,後ろ手に縛られて引き据えられた像なのです。

     
    2012年08月25日 08:41
  • サイン


    続き)

     何のためにそうした像があるのかというと,参拝者が唾を吐きかけるためのものなのです。

     中国は儒教の国なので,父親の敵は絶対に討たなければなりません。そのため中国史には,父親の敵を討とうとして苦節何年,やっと攻め入ったときには相手の王はもう死んでいた,ということがよくあります。

     そういうとき中国人はどうするのかというと,相手の墓を暴いて死体を鞭打つのです。

     それをやらなければいけないのが儒教なのです。

     儒教では死んでも罪は絶対に消えません。未来永劫悪人のままです。

     でも,日本にはそういう考え方はありません。

     
    2012年08月25日 08:45
  • サイン



    続き2)

     日本人は,たとえどんなに悪人であっても,死んだらみな神仏と考えます。

     例えばA級戦犯の東条英機であっても,彼には当時の彼なりの考え方があって,ある意味でほかの人たちの罪を背負って,もう死んでしまったのだから,それは神であり仏である,と考えます。

     だから日本人は,彼を神社に祭るわけですが,罪人は未来永劫罪人という思想を持つ中国人にはその考え方は理解できません。

     韓国にも中国と同様の例があります。この点で韓国も儒教国と言って間違いないと思います。…略…

     日韓併合のとき調印した,韓国の全権,李完用という当時の総理大臣の墓は,今,韓国のどこを探してもありません。

     墓をつくってしまうと,必ず暴かれてしまうのでつくれないのです。…以下,略

    ★★★ 引用終わり ★★★

     井沢元彦著「仏教・神道・儒教 集中講座」(徳間書店)からの引用でした。

    *******************



     ですから、死んだ山本美香さんを批判している罵愚さんは、日本人的発想ではないんですね。

     むしろ儒教国の韓国、中国と発想が類似していると思います。

     中国、韓国のような儒教国では悪人は悪人なんです。死んでも罪は絶対に消えません。未来永劫悪人のままなんです。

     死んだ人に対しても悪人として断罪批判するわけです。

     私の立場は罵愚さんと違って、「実際に命をかけて取材に行った人々には責任はないのです。」とはっきりと書いています。

     それから左翼平和主義と書かれていますが、これは報道に行った山本さんのことを仰っているのでしょうか?仮にそうならば、それはとんちんかんでしょう。テロが第一に悪いのです。どういうテロ組織が行ったのかはっきりしませんが、おそらく右翼・攘夷派でしょう。
    2012年08月25日 08:56
  • 時代

    戦争報道に関する意見はまだわかりますが事実婚まで否定するのはいかがなものでしょうか?それと戦争はどのような関係があるのですか?事実婚がふしだらって昭和初期ですか?
    2012年08月25日 12:39
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     罵愚さんは、「公私ともに最高のパートナー だった事実婚の夫とかいう男が同行していたらしいが、そういうふしだらな関係を正当化した報道にも違和感がある。」と書かれています。

     事実確認なのですが、不倫だったのでしょうか?

     もしそうでないならば、ただの誹謗中傷のような感じを受けますが…。あるいは、罵愚さんの勘違いということになりますが。

     仮に不倫だったとしても、戦争はどのような関係があるか?という時代さんの指摘は的を得ていると思います。

     ただ、「だれかがうしろで仕組んだ偏向報道だと思う。こんなものにネットがだまされてはいけない。」の部分はそうだと思うんですね。

     私の最初のコメントに書きましたが、

     “ 大新聞、大テレビの記者は、危険な地域には行かないわけです。危険と言っても超危険地域の話をしています。逆から定義してもいいです。大マスコミが踏み入らない危険地域があります。

     どうしてもそういう紛争地域については命をかけて取材する独立系ジャーナリストの取材、録画が必要になってきます。

     したがって、大マスコミが、そういう危険な紛争地帯に送り込む独立系ジャーナリストを批判することは考え難いということが罵愚さんの仰りたいことのように思います。”
    2012年08月25日 13:06
  • salma

    イスラム社会において異教徒の女性は治外法権何でもありのターゲットである
    紛争地帯でlawAndOrderはない事を理解の上で長年の取材活動をしていたなら当人も覚悟のうえだろう

    弱い者や女性の味方として取材していたそうだが
    宗教/民族/領土問題やイスラム社会の男尊女卑の国で生まれたり暮らした事がない人間に何が当人達の為になるかを理解出来ていたとは考え難い
    この世は生まれた時から民族や宗教が決まっている人間もおり
    縛りがある中で皆精一杯生きているのだ
    部外者が憐れむのは失礼だ

    生き残り氏の現地音声に[ここは大丈夫な地帯だった~~ハズ?]のような発言があったが紛争地帯をなめている
    民兵と一緒だったようだが女性が凌辱されるリスク等も考えていないのか
    更なる疑問が増す

    人はいつか死す
    信念ある行動の末路ならまったく可哀相ではない
    合掌

    遺体輸送費が税金でない事を望む
    2012年08月25日 13:46
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     自作自演という言葉をご存じでしょうか?

     ネットでも、自作自演でブログコメント欄に活気を催させたり、また、感情的な反論に耐えきれないため、あえて先行して自分で批判的なコメントをしてガス抜きをしたりすることがあるようです。

     
     今、山本美香さんの殺害については、政府軍が行ったというのが通説的な見方です。それは山本さんが政府に対抗している自由シリア軍に同行していたからですが、しかし、今、自作自演説も出ています。

     ここまで言っている人もいます。
     http://mahoroba23.seesaa.net/article/287767119.html

     そこまで行かなくてもこういう情報は普通に流れています。http://gendai.net/articles/view/syakai/138369

     さらに弱めの情報としては、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120821-00000001-jij_afp-intがあります。

    “ 米国が資金援助するアラビア語放送アルフーラ(Al Hurra)は、ジャーナリスト4人を乗せた車両の運転手の話として、攻撃してきたのは服装から見て反体制派の自由シリア軍(Free Syrian Army、FSA)のようだったと伝えた。だが、FSAはこれを否定し、攻撃は政府軍によるものだと主張しているという ”

     しかし、http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/3509333.htmlには、“ 米国のオバマ大統領は、米中央情報局(CIA)やその他の米国の機関にシリア反体制派への支援を許可する指令文書に署名した。 ”ということが書かれています。

     
    2012年08月25日 14:43
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     テロについて、第1 国家テロ、第2、反国家テロ、第3 組織間テロに分類した上で、その語源についてこう語っている人がいます。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     …「テロル(terror)(恐怖の意)」の名称は、フランス革命期のジャコバン派の恐怖政治(terrorism)に由来する。

     それは、反対派・個人にたいする「第1・国家テロ」だった。

     その「国家テロ特別組織」が、ジャコバン派の「公安委員会」「治安委員会」という秘密政治警察だった。

     http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninterror.htm

    ★★★ 引用終わり ★★★

     今回の件は、政府軍が行った可能性が高いでしょうね。愛国主義的保守派によるテロだと思います。
    2012年08月25日 20:09
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     罵愚さん。以前に私のブログにコメントして頂いた関係で、こちらをお借りしてもよいでしょうか?私の反論を掲示されない人がいるのです。後で公開されても一部の方には、役に立つ情報ではないかと思います。1000以上のカウンターなので、低く見ても20人くらいの方々には役に立つのではないでしょうか?

     http://76263383.at.webry.info/201208/article_23.htmlのコメント欄の私のコメントの続きとなります。そちらのハンドルネームはサインではなくfreiheightです。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     この偈文において、lokoを生命の意味で説法されたのは、少なくとも日本ではスマナサーラ大長老が初めてではないかと思います。
     
     その後、スマナサーラ大長老のご指導を受けている人や、スマナサーラ大長老の説法をある程度参考にしている人が、「生命」あるいは「世間の人々」の意味で訳すこともあります。

     しかし、例えば、中村元先生は、

     「この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱出れた鳥のように、天に至る人は少ない。」

     と訳しておられます(「ブッダの真理の言葉・感興のことば」岩波文庫34頁)。

     普通「世の中」といったら、生命のことではありません。人間が生きる世界のことです。もう少し広くとっても生命が生きる世界のことです。
     つまりは、生命ではなく、「場所」ないし「界」です。
     
     また、中村元先生は、「ここで」と訳しておられます。「ここで」というのは、日本語の使い方として、「場所」を意味します。したがって、中村元先生がlokoを場所としてのworldの意味で訳されたことは明白と思います。

     
    2012年08月26日 11:44
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    続き) http://76263383.at.webry.info/201003/article_15.htmlに片山一良先生の訳をワンギーサさまが掲示されています。

    この世は暗い闇である
    ここで見通す者は少ない
    網を脱する鳥のように
    天に赴く者は少ない

    (片山一良先生 訳)

     lokoを「この世は」と訳されているわけですが、これが「生命」を意味するならば、2行目に「ここで」は入らないと思います。
     片山先生の意図としては、「場所」「界」の意味で、「この世」と仰っていると思います。

     ワンギーサさまは、そちらのアドレスで片山一良先生の訳を批判されているように見受けられます。従いまして、lokoを「場所」ないし「界」の意味ではなく、「生命」として訳しておられることは伝わってきます。

     しかし、おそらくそうした学者先生に引っ張られてしまったのだと思うのですが、ワンギーサさまの記事本文において、「パーリ語原文と訳語」および「直訳」において、「ここで」という訳が入ってしまっています。

     スマナサーラ大長老の訳は、

     生命は盲目である。
     観察する者はまれである。
     網を破り自由になれる鳥が少ないように、天に至る(解脱を得る)人は少ない。
     (Dh.174)

     です。

     「ここで」は入らないんです。

     ですから、「ここで」という訳は、誤解を招くのではないかな?と思い、補足説明をされたほうがよいのではないか、という気持ちもあって、前のコメントを書いています
    2012年08月26日 11:45
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    続き2) lokoを生命の意味ではなく、「場所」としての「世界」の意味で訳すことは世界的な潮流のようで、英語で書かれたものを調べても私が調査した範囲ではどれも「場所」の意味でした。
     
     ですから、lokoを「生命」の意味で理解するのは、世界的に観ても、スマナサーラ大長老など極々少数の方々に限られると思います。
     
     「ここで」は、tanuka-etthaという複合語を構成するetthaという単語の訳だと思いますが、このetthaは、lokoを指しているわけですから、lokoを「生命は」と訳す以上、etthaも場所としての「世界で」の意味ではなく、「生命において」といった意味に理解すべきではないか?と思います。

     つまり、vipassatiはヴィパッサナーをするという意味ですから、偈文の2行目は「少数の生命が、当該生命において、ヴィパッサナーをする」ということで、自己観察のことを意味しているのではないかと思います。

     tanukは、tanukaという形容詞ですが、few onlyの意味です(アナセンの語彙集による)。ここでは「少数の」と訳しました。スマナサーラ大長老がそう訳されることもあります。etthaは副詞です。意味は上に書いたとおりです。
     
     すると、「少数の」(tanuka)という形容詞は何を修飾しているのでしょうか?私は、1行目のlokoが省略されている文章されていてそれを形容していると観ます。
     
     よって、直訳すると、「少数の生命が(tanuko loko)、当該生命において(ettha)、ヴィパッサナーをする(vipassati)」という訳になります。

     つまりは、etthaというのは「自己」観察であることをはっきりするためのパーリ単語と思います。世界という場所ではなく、「自己」を観察するわけです。
    2012年08月26日 11:47
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    続き3) 「私は、1行目のlokoが省略されている文章で、それを形容していると観ます。」が正しいです。

     さて、このダンマパダ174の偈文の全体の趣旨は、「ヴィパッサナーをする者は少数で、したがって、解脱に達する者は少ない」というものと理解されます。

     生命は盲目であるというのも、智慧を開発する実践法であるヴィパッサナーをしないから、無明であるという意味に理解できます。

     しかるに、lokoを「場所」としての「世界」の意味に理解したのでは、その趣旨が伝わらないこととなります。

     したがって、ダンマパダ174の訳は、世界的に見て極々少数であろうとも、スマナサーラ大長老の訳の方がブッダの真意に合致していると思います。

     また、1行目にAndha-bhūtoという複合語(コンパウンド)があって、

     (andhaもbhūtoも形容詞で、複合語になっても全体は形容詞です。以上、アナセンの語彙集によります。http://www.manduuka.net/pali/w/p_allut8.cgi)、

     bhūtoという単語がその複合語の一部を構成しています。英語でbeing、の意味です。

     これはlokoが名詞として主語で主格ですから、英語のbe動詞に相当するコピュラ動詞のhotiが省略されていて(パーリ語ではこういうコピュラ動詞はよく省略されます)、Andha-bhūtoが補語になっていると観られます。

     
    2012年08月26日 11:55
  • サイン



    続き4)

     つまり、英語で言うS+V+C構文です。

     この場合、文法規則上、CはSについて説明するわけです。そのCにbeing、existingを意味するbhūtoが来ているのですから、Sのlokoが、場所の意味であるはずがありません。

     文法規則から言っても、Sのlokoは「生命は」の意味です。スマナサーラ大長老の凄さが分かるところです。

    ★★★ 引用終わり ★★★

     友松圓諦さんは、偈文の1行目と2行目を「この世間(よ)には盲(めしい)多くこの世間(よ)には能(よ)く観るもの少なし」と訳しておられてスマナサーラ大長老の訳と似ているようでもあります。
     
     でも、これは文法を無視して、「場所としての世界」では意味がよく分からないのでこう訳したということが推測されます。
     「この世間には」というのは処格の訳し方ですが、lokoは主格です。盲(めしい)を主語としておられますが、盲目にあたるAndhaは形容詞です。
     意訳というのはあり得ますが、しかし、この意訳はできないと思います。意訳するなら「世には」が不要です。

     ダンマパダ174のパーリ原文は次のとおりです。http://www.j-theravada.net/howa/howa89.html

     Andha bhûto ayam loko _ tanuk' ettha vipassati
    Sakunto jâla mutto 'va _ appo saggâya gacchati (Dh.174)

     なお、etthaはin this placeなどという意味ですが、アナセン(アンデルセン)は、ここではin this worldの意味で理解しています。ですから、代名詞的な働きを認めています。
    2012年08月26日 12:04
  • サイン



    続き5) “意訳するなら「この世間(よ)には」は不要です。”に訂正します。
     文字化けしたようなので、ワンギーサ比丘のブログから、偈文を引用します。訂正します。

     Andhabhūto    ayaṃ  loko,
    tanuk'ettha    vipassati;
    Sakuṇo   jālamutto va,
    appo     saggāya   gacchati.

     etthaは、in this placeでアナセンはlokoをworldの意味に理解して、ここではin this worldの意味で訳しました。

     私は、スマナサーラ大長老のlokoは生命の意味であるという訳を相当としますから、etthaは、「当該生命において」の意味になるわけです。

     in this placeのplaceに生命が来るのはおかしいとヴィパッサナーを実践したことがない方は思われることでしょう。

     しかし、スマナサーラ大長老のブッダのヴィパッサナー実践指導を受けて、真剣に実践したことが或る人には、ぴったりくるのです。

     あたかも客観的な場所を観察しているような感じで、自分(身体という物質エネルギーと心のエネルギー)や自分に触れる物質エネルギーを観察するからです。
     
     主観的にラベリングをするマハーシ式瞑想法をしている人々には、この訳はしっくりこないかもしれません。

     少しこの点に関わることは私のブログ記事に書きました。http://daidaiiro.at.webry.info/201208/article_1.html
    2012年08月26日 12:38
  • 罵愚

    山路 独 さん
     いやぁ、それでも報道はその悲惨をセーブしたり予防する意義はあると思います。しかし、この二人は軽はずみで、軽率だった。それを指摘する報道がまったくなく、たくさんあるある報道機関がいっせいにそろって賛美するのは、異様だと思う。
    2012年08月27日 15:34
  • 罵愚

    時代さん
     事実婚を“ふしだら”と断定したのは、わたしの個人的な価値観です。同時に、あたかもそれが社会にうけいられているかのような報道に…あるいは都合によっては“進歩的”な夫婦として公認するかのような報道は不愉快でした。
     あのふたりはふしだらで、夫婦と他人をつかいわけているような印象をうけました。そして報道機関は、それを利用している。
    2012年08月27日 15:44
  • 罵愚

    salma さん
     まったくですね。ここのレスにしても、まったくわかっていない連中が、わかったような顔をして書いている。わからないことをわからないとして、わかっていることだけを書くべきでしょうね。
    2012年08月27日 15:49
  • サイン


     太平洋戦争のことで、バイウォーターという人が書いた次のような文章があります。大正13年に刊行された本(開戦の17年前)に書かれたものだそうです。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     中国に於ける権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。

     開戦当初日本は海軍力においてアメリカよりもやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと、海軍はフィリピンに奇襲攻撃を掛けマニラを占領し、西太平洋の制海権を握る。

     しかし、生産力に勝るアメリカが、海上封鎖による持久戦法を取り、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして、艦隊主力をもって行われたヤップ島沖海戦でも日本は敗北し、アメリカはグァム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は次々全滅する。
     
     そしてマニラも奪回され、この間ソビエトは樺太に侵攻しこれを占領する。中国軍は南満州を支配下に置く。

     ついに内閣は総辞職する中、アメリカの爆撃機が東京上空に襲来する。

     ここに至って日本は、アメリカ側の講和勧告を受諾し戦争は終結する。
     
    ★★★ 引用終わり。井沢元彦著「世界の宗教と戦争講座」徳間文庫272頁 ★★★
    2012年08月27日 18:48
  • サイン



    続き) 井沢氏は、同著の中でこのバイウォーターの記述についてこのように述べています。

     ほとんど正確と言ってもいいくらい戦争の推移を見事に予測しています。…中略…

     開戦の十七年も前にイギリス人のジャーナリスト兼海軍研究家は、日本とアメリカが戦争するとすればこういう原因で、戦争の経緯はこれこれこういうふうにたどるだろうということを予測していたのです。

     日本とアメリカが将来対立するのではないかという考え方はありましたが、当時は戦争が起こるなどとは、まったく誰も考えていない時代でした。

     バイウォーターという人は、どちらかというと戦争が嫌いな人で、戦争は起こってほしくないという願いを込めて、戦争が起こるとすればこのケースなのだから、こういうふうにならないようにしたらいいのではないかという意味でこの本を発表したのです。

     問題は日本人がこれをどう受け止めていたかということなのですが、案の定、日本人は大反発したわけです。

     なぜかというと、何度もいうようですが、「言霊」の社会では、冷静な予測であろうがなんであろうが、「おまえはそう望んでいるんだな」ととらえるからです。(引用終わり) 
    2012年08月27日 18:50
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     当時の人々は、バイウォーターの言うことを真剣に受け止めなかったのです。受け止めたのは山本五十六くらいかもしれませんね。

     山本五十六はこのバイウォーターの予測にあえて乗っかった上で、逆らおうとしたふしがあります。

     しかし、結局、バイウォーターの予測どおりになってしまいました。

     大局観でバイウォーターの方が優れていたと思います。
    2012年08月27日 18:52
  • サイン


    続き3) 直前のコメントは続き②です。

     井沢元彦さんが仰ることは、日本人は議論が下手で感情的な批判しかできないということでしょう。ですから、意見に何か反対するところがある場合には、それが単に感情的なものにすぎないのか、データに基づくものなのか、精査する必要があります。

     罵愚さんは、「ここのレスにしても、まったくわかっていない連中が、わかったような顔をして書いている。わからないことをわからないとして、わかっていることだけを書くべきでしょうね。」と仰っていますが、だったらなぜわかっていないということを指摘できないのでしょうか?指摘して、わかっていないことが暴露されたというならば、分かりますが、そのような事態を少なくとも私がコメントしてから見たことがありません。

     ですから、むしろ罵愚さんのほうが「わかっていない」のです。

     論理学上、あなたは「分かっていない」というためには、私は「分かっている」ということが前提になります。否定は肯定が前提になるのです。

     左翼が何であるかを分かっている人は、罵愚さんは「左翼ではない」と言うことができます。

     これに対し、左翼が何であるかを分かっていない人は、罵愚さんが「左翼ではない」とは言えないのです。

     否定は肯定が前提になります。

     したがって、「分かっていない」という人は、「分かっている」ことが前提になりますが、その内容を明らかにしないならば、反論できなくて手も足も出ないので、「分かっている」ふりをしたと多くの人は思うのです。

     それは実社会でもよくありますね。上の立場の者が本当は自分がよく分かっていないのに、プライドを守るために「おまえはまだよく分かっていない」と言うような場合です。

     
    2012年08月27日 19:04
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     ところで、http://76263383.at.webry.info/201208/article_23.htmlの話に戻します。

     ここでは、上座仏教のスマナサーラ大長老の弟子を自称するワンギーサ比丘が、因縁物語に基づいて解説をしています。

     しかし、この因縁物語の捉え方は、スマナサーラ大長老の捉え方ではありません。したがって、このワンギーサ比丘のブログの頭書には嘘又は大きな勘違いがあると思います。http://76263383.at.webry.info/

     スマナサーラ大長老の説法と異なることを述べていることは、私だけではなくて、勇気のある複数の人によって指摘されてきた事項なのです。頭書の記載を変えないといけないのではないでしょうか?

     レベルから言っても全然違うものになっていると思うので、初学者に悪い影響があるように思うのですが…。
     
     さて、ダンマパダの因縁物語は、そのそのダンマパダの短い偈文と対応させられています。

     しかし、これを対応させたのは、ブッダではありません。

     通説では、西紀5世紀前半のブッダゴーサ長老とされています。ブッダ入滅の後、約1000年経過しています。

     スマナサーラ大長老は、この因縁物語を鵜呑みにはされませんし、また、ダンマパダ(法句経)の註も鵜呑みにはされません。私の印象ではあんまり役に立たないという態度です。

     しかし、スマナサーラ大長老は、上座仏教のお坊様ですから、厳しく批判されず、時々、やんわりと批判されるのが通常です。

     
    2012年08月27日 19:22
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    続き) 例えば、スマナサーラ大長老は、「どうしてこういう因縁を持って来たのか私には分からない」とか言って批判されます。理由はきちんとダンマパダの解説を通じてそれまでに説明されています。

     (この註=ダンマパダ・アッタカターに因縁物語が集められ、ダンマパダの註釈がなされています。したがって、因縁物語を編集したのはブッダゴーサ長老であるとする通説は、ダンマパダの註もブッダゴーサ長老の註とします。)

     ところが、そのスマナサーラ大長老が、このブッダゴーサ大長老が編集されたとされるダンマパダの因縁物語を堂々と批判されたこともあります。時々場所を限定したりして批判されるのです。

     それは上座仏教のお坊様としてできる範囲でするということでしょう。

     つまり、スマナサーラ大長老がダンマパダの因縁物語をあまり重視していないということは時々直接スマナサーラ大長老の説法を拝聴している人々には、多くの場合、自明の事実です。

     しかし、時々それに気付かない人もいるわけです。

     そうすると、場所を限定して強く言う必要が出てくる場合が生じます。

     スマナサーラ大長老は、上座仏教のお坊様ですから、説法、瞑想指導を円滑に行うためには、上座仏教の教義に配慮せざるを得ません。

     しかし、大長老は、元々の第一結集のブッダの経典に遡って、元々のブッダの教えを伝えるということをされています。ですから、時に上座仏教の教義にも反対されるのです。

     が、そういうことをしてサンガに文句を言う人もいるみたいです。すると、余計なところに時間を使わざるを得ません。

     なので、そういうロスは避けようとされるわけです。

     
    2012年08月27日 19:35
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    続き2) スマナサーラ大長老が、通説によればブッダゴーサ長老が編集されたとされるダンマパダの因縁物語を強く批判されたものとして次の質疑応答があります。ご解答がスマナサーラ大長老です。

    ★★★ 引用開始 ★★★
     
    Q:ダンマパダの因縁物語では、覚った後に牛の角に突かれて死んじゃう話が多いんだけど、なぜ?

    A:なんで覚った大切な方々がやたら牛に突かれて死んじゃうのかと……私があまりエピソードを使わないのは、そういうわけがあります(引用者註:エピソードというのは因縁物語のことです)。

     バーヒヤさんのケースは経典にもあるが、やたら牛に突かれて死ぬってのはどうも……。

     インドでは長い間牛を食べてないから、インドの牛にとっては人間は敵でも何でもない仲間、ということになっている。まったく安全ですよ。昔はバラモン人が牛食ってましたが……。

     仏教の教理学的に言えば、阿羅漢になったら一分でも生きていたいという気持ちはない。死は気にするものではない。いまだって、輪廻の中では生きる事自体が生と死で成り立っているのだから、なんという事はない。

     あまりにも今の生に執着する人が死を恐怖する。生はすなわち生死なので、いつでも輪廻なのです。阿羅漢には何かしたいという気持ちもない(引用者註:しかし、勘違いしないで頂きたいのですが、一度、説法・瞑想指導をすると決められたならば、誰よりも行動的です。なにもしないと決められたならば、そのままヴィパッサナー瞑想して、滅尽定に入られたまま、入滅されると思います。阿羅漢は滅尽定に入っている時間を決めることができると聞きます。)。

    物質がつながっている間は生きていて、自然に涅槃に入る。
     
    2012年08月27日 19:44
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    続き③) 物語を通じて語っているのは、突然亡くなるということを全然大げさにしないということ。大災害にあった人々を助けてあげるのは当然だけど、それは最終的な答えではない。心の悩み苦しみを無くすことが本当の復興であると。

    だったら、災害にあっていない私達だって同じことです。

     また、お釈迦様の時代、理不尽な死はいくらでもあった。

     一般人の間では、ダンマパダというと因縁物語を聴くことだと勘違いしているんです。私の解説の仕方は違います。エピソードに捕らわれると、ダンマパダの意味を忘れてしまう。

     http://twilog.org/jtba_talk/date-120303/asc

    ★★★ 引用終わり ★★★


     このように、スマナサーラ大長老は、ダンマパダの因縁物語を重視されないのです。ところが、ワンギーサ比丘は、因縁物語を重視する記述がかなりみられます。これは説法の態度からしてスマナサーラ大長老の説法とは違うのです。

     ですから、あちらのブログを読まれるかたは、ブログの頭書の記載は無視して、スマナサーラ大長老が仰っていることとは違うんだな、と思ってください。

     
    2012年08月27日 19:53
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    続き④) ところが、スマナサーラ大長老は、先に説明したダンマパダ174については、因縁物語を含めて説法されています。http://www.j-theravada.net/howa/howa89.html

     しかし、ワンギーサ比丘の解説と比較してみてください。http://76263383.at.webry.info/201208/article_23.html

     スマナサーラ大長老は、ブッダゴーサ長老の因縁物語の全部は採用しておられないのです。

     ワンギーサ比丘のブログでは因縁物語の内容としてこういう部分が紹介されています。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     ブッダはアーラヴィーの町で次のように説法されました。

     「『命は不確かであり、死は確かである。必ず私は死に、私の命は死をもって終わる。命は定まらないが、死は定まっている。』と、このように死念を修習しなさい。

     なぜならば、死念を修習せずに、最期を迎える者は恐れ、叫びながら死にますが、修習するものは恐れることないからです。」

    ★★★ 引用終わり ★★★

     この死念の修習というのはサマタ瞑想の一つです。

     ワンギーサ比丘は、因縁物語の内容として、続けて「それを聞いて人々は自分の仕事に戻りましたが、16歳の機織りの娘だけが死念の修習をその後3年実践しました。」と書いておられます。

     しかし、ブッダの教えでは、ヴィパッサナーが涅槃に至る唯一の道とされ、ヴィパッサナーで預流果に覚るのです。賢者の説法で覚ることもあるのですが、その場合もヴィパッサナーの冥想状態にはいっていると理解できます。(スマナサーラ大長老著 宝経法話【初版】49頁以下 日本テーラワーダ仏教協会)

     
    2012年08月27日 20:06
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    続き⑤) また、ダンマパダ174には、vipassati(ヴィパッサナーをする)という単語が入っているのですから、この【預流果に覚った】機織りの娘さんが死念というサマーディ瞑想を行ったとしたのでは、因縁物語とダンマパダは内容が合致しないことになります。

     ですから、スマナサーラ大長老は、ブッダゴーサ長老が編集したとされる因縁物語を今回は使っていますが、通常は因縁物語を重視しておられず、また、今回(ダンマパダ174)においても、ブッダの元々の教えに反しないようにして、取り入れておられるのです。

     スマナサーラ大長老は、死念の話は一切しておられず、預流果に覚った16サイの機織りの娘に対する説法は、“「私」という現象を観察する、自己観察というヴィパッサナーの真髄をブッダが説いたもの ”として解説されていると思います。

     これに対し、ワンギーサ比丘は、この16歳の機織り娘に対するブッダの説法についても、「私」という現象に対する自己観察(ヴィパッサナー)という点をごっそり省いて解説されてしまわれました。http://76263383.at.webry.info/201208/article_23.html

     全体の文脈から見て、「死」、あるいは、「死念」という観点から事故解釈したと思われます。

     私は、ワンギーサ比丘が自分の立場として解釈を述べるのは自由と思うのです。

     しかし、ブログの頭書で、「私の師匠であるスリランカのスマナサーラ大長老に教わったこと」と書くのは不適切だと思います。

     スマナサーラ大長老の説法とは異なることを随所で語っているからです。

     
    2012年08月27日 20:27
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    続き⑥) クリントン大統領が「不適切な関係」発言をされたことがありますが…。あの場合は、不倫だから大問題なわけです。

     法律婚がない人の恋愛は自由です。しかし、性欲を肯定しているわけではありません。プラトニックでお互いに尊敬している場合、特に問題はないと思います。

     戦地に赴きいつ死ぬか分からないのですから、相手の再婚のことなどを考えて籍を入れないことにも合理的理由があります。日本にはまだ籍を汚すという古い発想があります。なんでバツいちなんでしょうね。別にバツにする必要はないと思いますけど。

     それとも、日頃性的な関係を結んでいたということを立証できるのでしょうか?できないと思いますけど。

     長く続いている男女関係で子どももいないような場合には、性的な関係もなかった可能性も高いです。今回、仮に、子供を作っておられなかったならば、危険地帯に行く覚悟のようなものも感じられます。

     まあ、少なくとも、事実関係を精査せずに、データを揃えずに、いきなり批判するというのは、人を侮辱する人によくあることです。それは癖になっていて気づくことができないのです。

     心の騙し機能が働いていると思います(心の騙し機能というのは、心の誤魔化し機能とも訳され、自分で自分を騙していることに気づかない心の作用の意味です。パーリ語で、ワンチャカ・ダンマーです)。
    2012年08月27日 20:33
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     私のブログを読まれた方でお読み頂きたいのが、http://www.j-theravada.net/kogi/kogi124.htmlのスマナサーラ大長老の説法です。

     その中でブッダの説法が引用されています。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     Atītam nānvāgameyya,
     nappatikankhe anāgatam;
     yadatītam pahīnam tam,
     appattanca anāgatam.
     Paccuppannamca yo dhammam,
     tattha tattha vipassati;
     asamhīram asankuppam,
     tam vidvā manubrūhaye.


     過去に引きずられず
     未来を期待しない
     過去はすでに終わり
     未来はいまだ現れてない
     現在の法(現象)を
     その場その場で観察する
     しかし現在にも実体がないことを知る
     そのように知る人に、成長がある

     …中略…

     (Majjhima Nikāya 3.187)

    ★★★ 引用終わり ★★★

     私がブログで述べたことがブッダの説法に合致していることを御理解いただけると思います。

     スマナサーラ大長老は、「観察する」と訳されていますが、これは「ヴィパッサナーをする」という意味です。偈文ですから、観察すると訳されて偈の雰囲気を出されていると思います。こう訳すほかないでしょう。
     
     パーリ原文をお読み頂くと、vipassati(ヴィパッサティ)となっていて、これはいわばヴィパッサナーの動詞形です。
    2012年08月30日 10:37
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    続き) ちなみに、完成後、少し内容を付け足しています。
     いつ読まれたか?にもよるのですが、今日も2か所書き足しました(着色しています)。
    2012年08月30日 11:11
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    続き2) 後、私のブログに派、井沢元彦さんの

     “「魔境(幻覚等)」は、江戸時代では日本人の常識であり、幻覚体験は、高級な宗教でなくても或る条件の下、簡単に起こり得るというのが事実である。
     
     なのに、起こり得ないと思っていると、オウム真理教のような宗教でそうした幻覚体験をした場合に、高級な宗教だと思いこんでしまう。
     
     実際、オウムにはそういう背景があって間違った道に入ってしまった。
     
     魔境を覚りと錯覚させないように、練達な師家さんが、禅宗ではいた”

     という趣旨の文章を最後に引用していたのですが、その後に、文章をかなり補充しました。それはヴィパッサナーやってみようかな?と思った人向けに書いたものです。

     また、最後の最後には、歩く瞑想において、足全体の感覚を感じながら、実況中継をし、他のデータは強引に遮断するというのは、サマーディ瞑想ではないか?という疑問に対して、私なりの意見を述べています。

     ヴィパッサナーでは坐る瞑想と、歩く瞑想では一見実践の仕方が違うんです。しかし、よくよく調べてみると基本原理は同じなのです。最も強く感じた実感を実況中継するという原理は貫かれていると思います。
    2012年08月30日 12:41
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    続き3) 派×→は○

     ところで、スリランカ、ミャンマーは、帝国主義の時代に列強の植民地となってしまいました。

     ところが、タイは、植民地にならなかったんです。アジアで植民地にならなかったのは日本だけと思ったら大間違いで、タイもそうだったんです。しかも、日本と違って、平和的な外交政策でそれを達成しました。

     なぜか?ということを考えると、阿羅漢の人数が多かったということが推測されるのではないでしょうか?

     なお、こちらのアドレスでこういうコメントをしてみました(ハンドルネームはサインではなくカニ)。

    ★★★ 引用開始 ★★★

     2010/10/20(水) 午後 2:42で

     「元々のスリランカ仏教は、アショカ王の息子が伝えた仏教で、こちらは正統な部派仏教だったのですが信者も坊さんも居なくなり滅んだのですよ。
    で、件の坊さんの所がタイから再輸入されたと。」
    と書いている人がおりますが、よく上座仏教のことを知らないように思います。

     上座仏教の比丘は、スリランカで一度も絶えていません。ただ、出家比丘サンガという集団を構成する人数が足りなくなったので、タイから、お呼びしたのです。

    ★★★ 引用終わり ★★★

     http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/33508339.html#33508339の2012/8/30(木) 午後 0:55のコメント

     
    2012年08月30日 13:03
  • さち

    あんたね山本美香さんは何も佐藤さんにのこのこついてきたんじゃないよ… 自分の信念で行ったんで遊びに言ったと思ってるの?危険なのは知っているよ~佐藤さんもさすがに止めたとおもうが彼女が押しきったんじゃない 女の人は中々男性の言う事聴かない~今まで素直に聞いた女性見たことない。
    2012年12月31日 22:44

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「山本美香さんシリア惨劇の報道内容と事件の責任」について
Excerpt: 「山本美香さんシリア惨劇の報道内容と事件の責任」について  事件の直接の原因はこの二人の安全への配慮を欠いた無思慮だったとしても、その背景には二人を送りだした報道機関やメディアがあったり、この業界..
Weblog: 罵愚と話そう「日本からの発言」
Tracked: 2012-09-03 06:04