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zoom RSS 秋の叙勲は、だれのために行なわれるのだろうか?

<<   作成日時 : 2014/11/07 05:09   >>

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 憲法第14条3項に「3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」とあるだけで、法律はないので、なにを目的に、だれを対象に、春秋の叙勲をおこなうのかの基準はよくわからない。新聞で、その顔ぶれをみれば、なるほど立派な功績者たちだと納得はするのだが、その立派な功績が勲章であって、そのうえ政府が叙勲する必要があるのだろうか? の疑問は残るのだ。
 学者は論文が勲章だろうし、芸術家は作品が勲章だろうし、工芸家は作品が勲章だろうし、発明家は発明品が勲章だろうし、教育者は子弟が勲章だろうし、スポーツ選手は大会記録が勲章だろうし、経営者は会社が勲章だろうし…みんな成功者だから、ことあらためて褒賞する必要もなかろうと思うわけだ。
 ただし、世の中にはそういう成功者だけではなく、ほんらい国家なり社会が膨大な金品で謝礼をしなければならない人たちがいる。その社会的功績に対して、充分な報酬がなかった人たちで、たとえば警察官や消防署員や自衛隊員や政治家などだ。永年勤続者や殉職者はなおさらだろう。学者や芸術家や教育者やスポーツ選手や実業家のような、これがこの人の一生をかけた成果だと呼べるような派手な実績はないが、機械部品の歯車のような、社会全体が稼働するのに、なくてはならない縁の下の力持ちには、それなりの晴れの舞台が用意されるべきだ。
 そういう考え方で春秋の叙勲者の顔ぶれをみなおしてみると、いまさらこのひとを叙勲する意味を見いだせない人が大多数だ。社会的成功者を、ことさらライトアップする意味はないと思う。
 そしてもうひとつ、日陰の努力ばかりで、ほんらい叙勲でねぎらわれるべき公務員や政治家が、いまの日本では高級をむさぼるエリートになってしまって、叙勲にふさわしくないグループになっている現実だ。公共への奉仕者が、いつか国家の主人になっている現実だな。戦後民主主義は、ほんとうの意味の民主主義の理想からはかけ離れた現実をつくりだしている。叙勲のまえに、社会の仕組みを変えるべきだと思う。

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「秋の叙勲は、だれのために行なわれるのだろうか? 」について  叙勲された人たちの顔ぶれをみたときの違和感は、うらがえせばほんらい叙勲で満たされるべき官僚や政治家への期待感との落差だともいえる。政治や行政や政府の仕組みへの不満といってもいい。  公共の福祉のために、自己犠牲をいとわない政治家や官僚の理想像と、私利私欲に走って暴利をむさぼる、貪欲な独裁者としての現実の、この日本の支配者たちとの落差だな。この国の統治機構は、もう一度考えなおしてみる必要があると思う。 ...続きを見る
罵愚と話そう「日本からの発言」
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