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「格差を満喫できる社会が理想郷」について 引き続き格差の話題だが、平和憲法では14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定している。つまりここでは差別は“格差”を生むから禁止されている。あからさまにそうは書いてないのは、憲法ができた当時には、すでに辞書の「格差」を引いたときに書いておいたように、格差という言葉は政治や社会や法律用語ではなく、商業や工業の商品の品質格差をもっぱらさす言葉だったからである。ここ数年の社会状況がこの言葉を変質させているのだ。 もっと言えば好んでこの言葉を乱用する人たちの人間や職業や労働に対する誤解をはらんだ表現でもある。 そのうえで、憲法は差別を禁止しているのだが、その理由は書いてないが、容易に推量できるのは差別が格差を生むからだと思う。人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別をすれば、政治的、経済的又は社会的関係において格差が生まれるというのだろう。こうして生まれる格差は不条理だと言っている。 しかし格差は差別によって生まれるものばかりではない。二宮金次郎と小原庄助さんの格差は差別によって生まれたのではなくて、ふたりの能力や勤労意欲のちがいが生んだものだ。つまりボルトやナットのような工業製品はおなじ機械で製造されて、格差のない均質な製品ができあがるわけだが、ひとの勤労意欲や能力は工業製品ではない。ひとりひとりちがいがあって、それは人格やら個性でもある。当然、仕事の成果も千差万別で、おなじ時間、おなじ職場で、おなじ仕事をしても結果はそれぞれちがったものになる。 法律違反の差別によって生まれた格差は矯正されなければならないだろうが、能力や努力によって生まれた格差は正当なものだと思う。これを修正して結果の平等を主張するのは悪平等というものだ。 |
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