チベット蜂起・共産党政権の対応について
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作成日時 : 2008/04/16 08:25
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「梁文道氏のチベット論と平野聡氏のチベット問題についての解説」について
左辺に対象、右辺に支那の共産党政権をおいて、そのコントラストを鑑賞するかのごとき言説…たとえば「ダライラマの亡命政府と共産党政権」「オリンピックと中国共産党」「聖火妨害と中国共産党」「国際世論と中国共産党」…は、それなりに意義のある議論だとは思うが、ちょっと視点を変えて、真ん中に支那の共産党政権をおいて、周辺にチベットやオリンピックや国際世論や支那の国内事情や日本のジャーナリズムを放射状に配置してながめると、またちょっとちがった風景が見えてくると思う。
日本のテレビニュースでは北京や上海を通行する支那人の反応を、あたかもヨーロッパやアメリカのそれと同列にあつかって見せているが、双方がもっている情報の質と量の格差は、あのニュース番組からは伝わってこない。ちょっとコメントがあれば…茶の間の視聴者は、支那の国内事情を、それなりに理解できているのだから、同情するにせよ軽蔑するにせよ、自分たち自由主義社会の市民生活と一党独裁政権下のそれのちがいを織り込んだ感傷にひたれるというものだ。
しかし、映像を提供している報道機関には、そうされては困る事情があるのだろう。コメントをひかえて、北京もパリも、あたかも同列のごとくみせつける。そこまでも想像をたくましくしてながめれば、日本のテレビもまた、たのしく鑑賞できる。
そうすると、蜂起を批判している支那人と、ダライラマとの通信を遮断されて法王に批判されているチベット族との、共通した境遇もまた明瞭にみえてくるわけだ。政治参加を拒否されたり、情報提供を制限された人民という立場では、チベット族も北京市民もおなじだ。さらに、日本のメディアがその事実に偏光レンズをかけたり、一部にぼかしを加えて報道するのは、支那の共産党政権と政治目的なり、理念を共有しているからなんだろうという想像も生まれてくるわけだ。
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